皆川淇園という奇人思想家

江戸時代の儒学者皆川淇園という人物がいる.Wikipediaを参照してもなかなかわかりづらいので,ここにまとめることにした.

皆川淇園は江戸中期を代表する儒学者で,京都で活躍した.「弘道館」という学問所を京に開き,一時は門人3,000人を数えたという.その足取りを追う.

皆川淇園の半生

皆川淇園

皆川淇園が開いた学問である「開物学」は,京で一時繁栄を見せたものの,その学問体系,即ち淇園の学問上の主張は十分に理解されたわけではなかったようだ.学問のようすは「甚だ奇僻」とすら評されている.

むしろ淇園は一流の文人,「都市文化人」としての顔を持っており,そちらの側面ほうが市民にはよく知られていたようである.

淇園の都市文化人としての生き様はまさに放蕩であった.儒学者として士官することなく,ひたすら風流に生きながら学問を探求した.

都市文化人としての淇園

彼は,儒学者としての顔以外では,書画にすぐれた文化人としての顔を持っていた.

  • 画は円山応挙に師事し,京の画壇で人気を集めた.その腕は円山応挙にも勝るとも劣らないという評判だったようだ.

ここで注目したいのは,彼が非常に閉じた社会においてその芸術の才能を発揮していたとうことである.淇園が生きた時代は飢饉などが発生し,なかなか平穏な時代とも言い難かったようだ.その中で淇園は,都市文化人として,自らの仲間たちとともに閉じた保守的で居心地の良い空間を作り上げることに心血を注いだのである.

皆川淇園の学問「開物学」

背景

淇園が開物学を開く前,儒学者としての淇園は悩みを抱えていた.「天下は,儒学者の力に頼らずとも太平である」という悩みである.後述するが,荻生徂徠が開いた徂徠学以来,政治の安定に儒学は役立ってきた.一方江戸の太平の世を鑑み,淇園は自らの儒学を政治と分離することを目指したのである.

淇園は幼い頃から父である春洞にその詩文の才を見いだされ,高い水準の教育を施された.若い頃は「白話小説」に没頭し,そのレトリックを楽しむなどしたようである.これもおそらく開物学の構想の一つのきっかけだったのであろう.

「開物学」と音韻

開物学とは大まかに言えば,音韻(すなわち,言葉の発音)をもとに儒学上のさまざまな要素を捉えるという学問であった.一方でそれが体系立った学問にまで昇華したとは言い切れず,またその難解さゆえに当時「怪物学」と呼ばれていたようである.

一般的な儒学者は,「仁」という言葉が,孔子とその門人たちが残したテキストでどう扱われているかを,仁という言葉を取り囲む概念(忠,孝など)を含めて,総合的に体系立てていくものである.一方で淇園は,開物学において,仁なら仁で,それを扱ったテキストだけに注目して,そこで個別的に完結して概念を捉えていった.

また,儒学を代表する概念以外にも,たとえば「よろこび」という言葉は「喜」「歓」「欣」「悦」などいろいろあるが,これらの使い分けを,中国語の音韻や文脈から判断しよう,ということも開物学のなかのひとつの型であったようだ.

「開物学」の由来

開物学は「易経」繋辞上の「開物成務」という部分から由来している(東の雄,開成もここから名をとっていたはず).ふつうこの箇所は人材育成という意味で解されるが,淇園の解釈は異なっている.淇園は世の中のものを3つに分類した:「有形」「有象」「無形・無象」である.

  • 有形とは私たちの目で見ることができ,かつ手に触れることができるもの.
  • 有象とは私たちの目で見ることができるが,手に触れることができないもの.
  • 無形・無象とは有形でも有象でもないもの.

このうち淇園が「開く」べきと考えたもの,すなわち開物学の対象としたものが,「無形・無象」のものであった.

開物学で文章を開く

淇園によれば,文章は字義(=文字)で成り立っており,さらに字義は象から成っている.この働きは暗界におけるものであり,そこに「神気」が常に介在しているという.

この神気を捉えるには,他の儒学の学派との比較がわかりやすい.

儒学の一派としての開物学

開物学以前

朱子学

朱子学は,「行うべき理は自然と存在しており,それを体現したのが聖人である」という立場を取った.この朱子学江戸幕府による統治に一役買ったことは周知のとおりである.

徂徠学

荻生徂徠が開いたのが徂徠学である.これは淇園が幼い頃に最も栄えたようだ.この学派では「先王の道」(=理)は,自然に存在しているものではなく,王が自ら創り出したものだと考えていた.

折衷学

徂徠学は割とすぐに衰退し,次に登場したものは「折衷学」である.これらの折衷学は徂徠学からの脱却を目指したが,結局の所徂徠学の批判的継承に終わってしまった.さらに学問としての統一性に欠け,皮肉にもこれが近代儒学衰退の第一歩であったようである.

開物学

開物学もいちおうは折衷学の広い仲間として捉えることができるようだ.

大なるもの,小なるもの

徂徠学と開物学の最大の違いは,徂徠学は大なるもの(=先王の道)が存在し,そこから小なるもの(=実際の生き様,世の中)が自ら至る(到達する)と考えていたのに対して,開物学では,小なるものが先に存在し,そこから大なるものを導くことができるとする立場をとる.

一方で,開物学で言うところの「大なるもの」が何なのかは明確には理解されていない.さらには小なるものの分析の手法にも一貫性がなく,結局の所よくわからないといったほうがよさそうである.

民衆の捉え方

もう一つ徂徠学と開物学の違いを挙げるのなら,民衆というものの捉え方にある.

徂徠学では,民衆を結局のところ小馬鹿にして捉えているというべきか,聖人がいなければ「洪荒の世」になっているところを,聖人がいるおかげで治世が安定する,と捉えている.

一方で開物学では,民衆は,日々の営みの中で自然と世の理を体現しているのだと考える.それをあえて表現する人が聖人であると考えているのだ(そのため結果的に聖人の立ち位置は下がる).さらには民は悪政に抵抗し,自治こそが悪政を予防するとも考えている.

皆川淇園パトロン

弘道館の規則

  • 一、諸門人学業勤習致し候う儀、専ら躬行を慎み、浮薄に流れず相心得べく候事、
  • 一、常に多言暴躁を戒め、恭遜を尚ぶべき事、
  • 一、受業未熟の輩、異学の徒に対して、誇詡をなすべからず、但し同志研竅の儀は、格別に為すべき事、
  • 一、註解は聖人の本意にあらず、之により経書釈義刊行の儀、かたく之を禁ず、但し自ら遺忘に備うるの類は格別に為すべき事、
  • 一、経術取り扱い候上においては、軽率に我意をたてず師の説に従い申すべし、但し後々経文発明これ有り候う者においては、校合の上、其の善に従うべき事、
  • 一、総て著述刊行の儀、学塾へ差出し、一覧の上指揮に従い申すべき事、
  • 一、同盟の士、互に和気を以て相待ち、争諍これ有るまじき事、

パトロンである大名たち

特に松浦静山が有名.

参考文献

以上の記述は以下の参考文献に拠る.